博多⼈形の発祥には諸説ありますが、⻄暦1600年(安⼟・桃⼭時代 慶⻑5年)、⿊⽥官兵衛(⿊⽥如⽔)の息⼦、⿊⽥⻑政の福岡城築城の際、 ⽡師・正⽊宗七によって献上された、⽡⽤粘⼟で作られた⼈形が起源といわれます。 また、現在の博多⼈形の原型として、1818年(⽂化15年)以降の⽂政時代、博多祇園町の住⼈、中ノ⼦吉兵衛が⼯夫の末に作り出した⼟俗素焼きの⼈形ともいわれています。
1890年(明治23年)政府が外貨獲得の産業を興すため開催した、第三回内国勧業博覧会の際、表彰状に明記されたことで、博多⼈形という名前が⽣まれました。 1900年(明治33年)にはパリ万国博覧会にも出品され、海外へも輸出されるようになり、⽴体的芸術品として⾼い評価を受け、世界に広まることとなりました。 現在、福岡市内の街⾓でも⽇常の⾵景に溶け込み、親しんだり触れたりする⼈の⼼を動かしています。
400年以上の歴史を持つ博多⼈形。伝統⼯芸としてのジャンルは以下のように、幅広く受け継がれています。
「美⼈もの」「歌舞伎もの」「武者もの」「縁起もの」「能」「道釈もの」「⼲⽀もの」「童もの」
「節句もの」
博多⼈形は、伝統⼯芸品にもかかわらず、「何を作っても良い」という、懐の広さも⼤きな魅⼒の⼀つといえるでしょう。
多くの⼈形師が⾃由な題材で⼿掛けるオリジナル作品、また、平⾯の絵画やキャラクターの⽴体化ほか、驚きのコラボレーションは、遊びごころそのもの。
いつの時代も「いま」を⾒つめる⼈形師が紡いできた博多⼈形の伝統とは、「⾰新」の連続なのかもしれません。
枠を超え⾃由な発想で、表現できる世界を広げ⽣まれた作品を知ることは、⼈形師の⼼、魂を感じる⾏為ともいえるでしょう。
博多⼈形は原則として、地元の粘⼟を使って造形を⾏い、素焼きした⽣地からできています。
頭の飾りから⾐装、⾜の履物にいたるまで、⼈形師がひとつひとつ、おもに⽇本画材などで、⼿書きで細密に彩⾊した物です。
また、博多⼈形が他と際⽴って違う部分は、その精巧な型取りにあると思います。
明治時代、当時の⼈形師の⼈達が、彫刻家から⽯膏による型取りを学んだことが、造形の多様化と複製の精度に⼤きく貢献していきました。
完成度の⾼い作品が複製できるようになり、⼀般の⼈達が⼿に⼊りやすく、また世に広く知られるようになったのです。
『劉備玄徳』胡彩陶彫⼈形
⼀品作 釉薬部分仕上げ ⾼さ67cm
劉備の耳が大きいという話は、仏教からの転化ではないかと思いながら制作しました。これから天下に己を問う青年玄徳です。
博多⼈形は特別な理由がない限り型ものですが、⼀品作として型を取らず、オリジナルの作品のみしか作らないこともあります。
⼀品作は、造形に成約が⽣じないので、思い切った⼈形作りが可能となります。
『孫権仲謀』胡彩陶彫⼈形
⼀品作 釉薬部分仕上げ ⾼さ70cm
劉備や曹操と比較すると、印象が薄い人物ですが呉国を治めてきた力量は非凡で正統派の人物として表現しました。
『周瑜公瑾』胡彩陶彫⼈形
⼀品作 釉薬部分仕上げ ⾼さ70cm
赤壁の戦いに挑むために、孫権を説得する周瑜です。彼がいなければ、曹操の独り勝ちになっていたはずです。そんな胆力も備えた美周郎の呼び名に相応しい姿を目指しました。